真理の探究
1.般若心経(はんにゃしんぎょう)
この世界の心配事についてはほぼ語り尽くしたので、そろそろ本題の真理の探究に取り掛かりたいと思います。真理の言葉として最も日本人に馴染みがあるのは、般若心経(はんにゃしんぎょう)ではないでしょうか?
般若心経とは、唱えるだけで仏の功徳を授かることができる有難いお経で、百万遍唱えて超能力者になった人もいるそうです。また、全文を読んだことがない人でも、「色即是空」という言葉はご存じだと思います。
折角の有難いお経ですから、その意味を知れば一層ご利益が高まると思います。真言宗豊山派金剛院のホームページに、種智院大学客員教授の野口圭也先生という方の解説があるので、それを簡潔にまとめてみました。詳しくは、下記のサイトを参照してください。
http://www.kongohin.or.jp/hannya.html
【佛説摩訶般若波羅蜜多心経】
原 文 | 意 味 |
---|---|
観自在菩薩 | 観自在菩薩(観音さま)が |
行深般若波羅蜜多時 | 智慧の完成を深く修行して |
照見五蘊皆空 | 5つの人間存在の構成要素(色受想行識)は本体を欠いていると見抜き |
度一切苦厄 | すべての苦しみを取り除かれたのである |
舎利子 | シャーリプトラよ |
色不異空 | 物質的存在は、本体を欠いている状態にあるもの(=空なるもの)である |
空不異色 | 空なるものとは、まさしく物質的存在に他ならない |
色即是空 | およそ物質的存在であるもの、それがつまり空なるものである |
空即是色 | およそ空なるもの、それがつまり物質的存在なのである |
受想行識、亦復如是 | 受想行識(感受、識別、連想、判断)という心の働きもまた同じである |
舎利子 | シャーリプトラよ |
是諸法空相 | すべての存在しているものは、実体がないということを特質としていて |
不生不滅 | 生じることなく、滅することなく |
不垢不浄 | よごれたものでもなく、浄らかなものでもなく |
不増不減 | 増えることもなく、減ることもない |
是故空中無色 | それゆえ、実体がないものの中には物質的存在はなく |
無受想行識 | 感受、識別、連想、判断という心の働きもない |
無眼耳鼻舌身意 | 眼・耳・鼻・舌・身体・心(六根)といった感覚器官もないし |
無色声香味触法 | 色かたち・音声・香り・味・触感・心で思うこと(六境)もない |
無眼界乃至無意識界 | 六根と六境に感覚器官に基づく6つの認識を加えた原要素(十八界)もない |
無無明亦無無明尽 | 真理に対する根本的な無知(無明)もなく、無明がなくなることもない |
乃至無老死 | 無明を原因とする老死までの原因と結果の連鎖(十二縁起)もなく |
亦無老死尽 | 老死までの原因と結果の連鎖がなくなることもない |
無苦集滅道 | 苦集滅道という四聖諦(四苦八苦、渇愛、涅槃、八正道)もない |
無智亦無得 | 真理を知ることもなく、涅槃を得ることもない |
以無所得故 | 涅槃(ねはん=煩悩から解放された悟りの境地)に到達することがないから |
菩提薩埵 | 悟りを求める者は |
依般若波羅蜜多故 | 智慧の完成に依拠して |
心無罣礙 | 心に覆いがなく |
無罣礙故無有恐怖 | 覆いがないから怖れることなく |
遠離一切顛倒夢想 | ひっくり返った考えを超越して |
究竟涅槃 | 涅槃に安住する |
三世諸佛 | 過去・現在・未来の諸仏は |
依般若波羅蜜多故 | 智慧の完成に依拠することによって |
得阿耨多羅三藐三菩提 | 無上の正しい完全な悟りを得る |
故知 | したがって(我々は)知るべきである |
般若波羅蜜多是大神咒 | 智慧の完成の大いなる真言であり |
是大明咒 | 大いなる悟りの真言であり |
是無上咒 | この上なき真言であり |
是無等等咒 | 比較するものがない真言であり |
能除一切苦 | あらゆる苦しみを除き |
真実不虚故 | 背かないので真実であると |
説般若波羅蜜多咒 | 智慧の完成に対する真言を説こう |
即説咒曰 | すなわち |
羯諦羯諦波羅 | ガテー ガテー パーラ |
羯諦波羅僧 | ガテー パーラサン |
羯諦菩提薩婆訶 | ガテー ボーディスヴァーハー |
般若心経 | 智慧の完成の心真言を説く経典 |
さて、最初の方に出てくる「般若波羅蜜多」ですが、「般若」は智慧、「波羅蜜多」は完成という意味です。野口先生の解説によると、<「般若」とはブッダのこころの働き>だそうですが、それではかえって分かりにくくなるので、ここでは「般若=智慧」として話を進めます。
このお経を私なりに解釈すると、観音さまが智慧の完成を深く修行した結果、すべての存在には実体がないと知って、涅槃に到達することがないと悟ったわけですが、それでも修行を続けた結果、自己の認識を超越して涅槃に安住することができた。その際、真言(マントラ)が大いに役に立った、という体験を記述したものと理解できます。
これをもう少し詳しく解説すると、まず、すべての存在には実体がないということの意味は、この世の否定です。そして、この世以外に存在するものがあるとすれば、それは「あの世」しかありません。したがって、私なりに解釈すると、この世界は霊界の人々の修行の場で、霊的な存在だけが実在しているということを悟ったのではないかと思われます。現代風に言えば、この世界は仮想現実だということです。
その後は仏教の用語が続くので分かりにくいのですが、五蘊、六根、六境、十八界、無明、十二縁起、四聖諦(四苦八苦、渇愛、涅槃、八正道)といったものは、この世界を客観的に観察した結果得られた概念です。
したがって、涅槃に到達することがないということの意味は、いくら智慧の完成を意図しても、この世界を客観的に認識している限り、実体がないものを基礎にしているので、それ以上先に進むことができないことを理解したのだと思われます。
そして、それでも智慧の完成に依拠すれば、心に覆いがなく恐怖もないので、「羯帝羯帝波羅羯帝波羅僧羯帝菩提僧莎訶」という真言の助けによって、自己の認識を超越して涅槃に安住し、完全な悟りを得ることができる、ということだと思われます。
ところで、智慧の完成とは何でしょうか? 次回はこの点に焦点を当ててみたいと思います。 (2012年6月16日)
2.唯識(ゆいしき)
不思議なことに、般若心経には、観音さまが般若波羅蜜多(智慧の完成)をどうやって実現したのかということが書かれていません。したがって、ここからは私の想像ですが、もし、智慧がどこか外部にあって、本を読んだり誰かに教わったりして得られるものであれば、そう書いていたはずです。
しかし、そう書かれていないということは、智慧は外部にはなく、もともと自分自身の内部に存在していて、凡人は容易にその智慧にアクセスすることができないのだけれど、観音さまはそのアクセス方法を発見して、完全な悟りを得ることができたのではないでしょうか?
実は、この想像を支持する教えが仏教には存在します。それは、「唯識」という教えです。日本では、興福寺や薬師寺、清水寺、法隆寺などの有名なお寺が唯識を教義としています。この教えは、4世紀前半に成立した教えで、「孫悟空」で有名な三蔵法師は、この唯識の経典を手に入れるためにはるばるインドまで旅をしたそうです。
唯識をYahoo!辞書で調べると、一切の対象は心の本体である「識」によって現わし出されたものであり、「識」以外に実在するものはないし、この「識」も誤った分別をするものにすぎず、それ自体存在しえない、という教えだそうです。これは、般若心経の「諸法空相」(すべての存在には実体がない)という教えと共通する考え方のようです。
また、無相庵というサイト(http://www.plinst.jp/musouan/index.html)にある唯識の解説によると、唯識では、人間の意識とは別に、末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)の二つが人生に大きな影響を与えていると説いているそうです。
末那というのは思い量るという意味だそうで、末那識は、常に自分のことを思い量る深層心理のことで、これが利己的な思考や行動の原因となるそうです。
また、阿頼耶というのは蔵という意味で、阿頼耶識には人間の行ない、しゃべった言葉、そして心で思ったことが幼児期や前世のものも含めてすべて記録されているそうです。(ちなみに、ヒマラヤというのはヒマ(雪)+アラヤ(蔵)で、雪の蔵という意味だそうです)
現代風に言えば、この両者は無意識という言葉に近いようです。
西洋では、19世紀末にフロイトが初めて無意識の存在を明らかにしましたが、インドでは、実に1700年も前から無意識を深く研究しており、日本でも、7世紀には中国から伝来した唯識の教えを多くの秀才が学んでいたわけですから、東洋人の英知には驚かされますね。
唯識によると、末那識と阿頼耶識こそが煩悩の源泉であり、それらが我々の人生を演出しているのだそうですが、仏教の修行に精進することによって、末那識と阿頼耶識を智慧に変えることができるのだそうです。
これを私なりに解釈すると、無意識の中には、自分が何者で何のために生まれて来たのかが記録されていて、答えはすべて自分の中にあったということではないでしょうか? 観音さまが智慧の完成に至ったのは、自分の無意識を開拓することに成功して、その秘密を解き明かすことができたということのようです。
ところで、末那識と阿頼耶識については、実はヨガにも似たような考え方があります。『ヨーガ 本質と実践』(産調出版:刊)という本によると、ヨガでは、肉体を取り巻く2つの霊的なからだ、アストラル体(幽体)とコーザル体(原因体)があると考えるそうです。
調べてみると、アストラル体やコーザル体といった用語は神智学に由来するようです。神智学では、アストラル体は感情や欲望の所在地であり、コーザル体は輪廻の体験が蓄積する場所で、これが来世の原因となるそうです。
これは素人考えですが、アストラル体に存在する感情や欲望というのは利己的な思考や行動の原因となるものですから、アストラル体は末那識に対応します。また、コーザル体に蓄積する輪廻の体験というのは阿頼耶識そのものと考えられます。したがって、仏教もヨガも「無意識」を同じように理解していたということになります。
日本の仏教関係の書籍は、一度中国語に翻訳された経典を古い日本語で翻訳しているものが多く、現代人には非常に理解しにくいものとなっていますが、こう考えると、唯識というのは現代でも十分通用する素晴らしい教えだと理解できます。
なお、神智学とは、神智学協会の創設者であるブラヴァツキー夫人が霊感を受けてまとめあげたもので、霊的なからだを以下のようにさらに細分しています。
エーテル体 = 肉体とアストラル体との間の仲介役
アストラル体 = 感情や欲望の所在地で、幽体離脱をしたり、オーラの発生源となる
メンタル体 = 記憶力・想像力等の知的活動を行なう場所
コーザル体 = 魂の乗物、輪廻の体験が蓄積する場所で、これが来世の原因となる
ブッディ体 = 魂、愛の器、直感やインスピレーションはここから来る
アートマ体 = 魂、意志の器
モナド体 = 分神霊
これが本当なら、完全な悟りというのは、自分が神の分霊(わけみたま=モナド体)であると自覚することである、と言うことができそうです。こういった知識を持って仏教の経典を読み直すと、古臭いと思っていた教えの中に新しい発見があるかもしれませんね。 (2012年6月24日)
3.ヨーガ・スートラ
以前ご紹介したように、般若心経には、観音さまが般若波羅蜜多(智慧の完成)を深く修行したと書かれていますが、仮に智慧が自分自身の無意識の中にあったとしても、どうやってその智慧に到達することができたのでしょうか?
これについては、ヨガの修行方法が参考になりそうです。有名なヨガの教典である『ヨーガ・スートラ』(佐保田鶴治:訳、平川出版社:刊)の第三章には次のように書かれています。
三・一 凝念(ぎょうねん)とは、心を特定の場所に縛りつけることである。
三・二 静慮(じょうりょ)とは、凝念にひきつづいて、凝念の対象となったのと同じ場所を対象とする想念がひとすじに伸びてゆくことである。
三・三 その同じ静慮が、外見上、その思考する客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった時が、三昧(さんまい)とよばれる境地である。
三・四 以上の三つの行法は、同一の対象に対して行なわれるから、総称して綜制(そうせい)とよばれる。
三・五 綜制を克服した時に、真智が輝き出る。
これをもう少し具体的に説明すると、例えば一つの花に精神を集中した状態が「凝念」で、その花に関する色や形、匂いなどの想念が際限なく拡がってゆく状態が「静慮」、そして、自分自身の存在を忘れて、花だけが意識を占有した状態が「三昧」です。こういう心理状態のとき、五感を超越した「直観」によってその花を知ることができるそうで、これを「真智が輝き出る」と表現したようです。
また、訳者の解説によると、「真智というのは、知るべきものの実相を、少しの惑いもなく知るところの智慧である。」とのことです。つまり、ある対象に綜制を施すことにより、その智慧に到達することが可能となるわけですから、綜制を様々な対象に施すことにより、智慧の完成が実現すると考えることができます。
ここからは私の想像ですが、観音さまの名前(観自在菩薩)から察するに、観音さまは自在に観る能力に長けていたのではないでしょうか? そして、自在に観る能力というのは、五感を超越した「直観」、すなわち、ヨガでいうところの「綜制」だったのではないでしょうか?
つまり、観音さまは「綜制」のテクニックを身につけていたので、例えば「色」(しき=物質的存在)について綜制を施すことを繰り返すことによって、ついにその本質に到達し、「色即是空」(物質的存在は空なるものである)ということを「直観」したのではないでしょうか?
ところで、『ヨーガ・スートラ』によると、綜制によって智慧を得ることが可能になるだけではなく、様々な超能力を身につけることができるようになるそうです。具体的には、過去と未来を知る能力、動物の叫び声の意味を理解する能力、前世を知る能力、他人の心を知る能力、他人から見られなくなる能力、自分の死期を知る能力、微細なものや隠されたものや遠方のものを見る能力、などです。
仏教では、お釈迦さまやその弟子たち、あるいは中国や日本の高僧たちが超能力を発揮した説話が数多く伝えられていますが、ヨガでも悟りのレベルが上がると超能力を発揮できるようになるようです。そして、最終的には世界を支配する力が得られるそうです。
ただし、こういった超能力は「三昧」にとって障害になると『ヨーガ・スートラ』に明記されています。つまり、超能力に執着すると、そこで成長が止まってしまうので、完全な悟りには到達できないということのようです。また、世間には、超能力を得るために修行をする人もいるようですが、これは完全に本末転倒だと言えるでしょう。
さて、最後は余談ですが、チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマは、観音さまの生まれ変わりだそうで、14世紀末から14代にわたって生まれ変わりを繰り返しているそうです。現在のダライ・ラマが、かつての完全な悟りの境地を記憶しているのかどうか私は知りませんが、機会があれば彼の話を聞いてみたいものですね。 (2012年6月30日)
4.ラージャ・ヨガとハタ・ヨガ
前回、ヨガについて少しご紹介したので、ヨガの全体像についてもう少し詳しく説明しましょう。ヨガに関する最も古い文献である『ヨーガ・スートラ』(佐保田鶴治:訳、平川出版社:刊)には、ヨガの体系が以下のように記述されています。
1.ヤマ = 禁戒(非暴力、正直、不盗、禁欲、不貪)
2.ニヤマ = 勧戒(清浄、知足、苦行、読誦、自在神祈念)
3.アーサナ = 座法(長時間の精神集中のための安定した座り方)
4.プラーナーヤーマ = 調気法(呼息と吸息の流れを絶ちきること)
5.プラティヤーハーラ = 制感(感覚器官を外部の対象物から切り離すこと)
6.ダーラナー = 凝念(心を特定の場所に縛りつけておくこと)
7.ディアーナ = 静慮(同一の場所を対象とする想念がひとすじに伸びていくこと)
8.サマーディ = 三昧(静慮が、外見上その思念する客体ばかりになり、自体をなくしてしまったかのようになった状態)
これをヨガの八部門(asta-anga)といいます。また、最後の三部門を総称して綜制(そうせい)とよぶことは前回説明しました。
この八部門を修行するヨガをラージャ・ヨガといい、心理操作のみで悟りを目指すことが特徴です。ラージャ・ヨガの教えは非常にシステマティックで、これらのステップを忠実に実行することによって、誰でも悟りを開くことが可能となります。
ただし、各ステップを極めるのは実は至難の業です。例えば、最初の禁戒について、修行者が非暴力の戒を守れば、その人のそばではすべてのものが敵意を捨てるので、人間のみならず自然界からも害を受けることがなくなるとされています。しかし、聖者とよばれる人は別にして、並みの修行者では、インドの森の中で不用意に瞑想をすると、毒蛇や毒虫の害を受けてしまうそうです。
また、修行者が正直の戒を守るならば、ついには、その人が言ったことはすべて現実のものとなるそうですが、これは、病人に「治れ」と命令して病気を治したイエス・キリストのようなパワーを持つことを意味します。こういったレベルに達する人は歴史上極めて稀ですから、第一ステップの禁戒でさえ極めることは困難なのです。
これに対して、アーサナ(座法)とプラーナーヤーマ(調気法)の部門が発展して、肉体的な修業のみで悟りに至る手法が開発されました。それがハタ・ヨガです。
ハタ・ヨガの経典である『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』を翻訳した『ヨーガ根本経典』(佐保田鶴治:訳、平川出版社:刊)によると、ハタ・ヨガの「ハタ」とは「ちから」のことだそうです。そして、ハタ・ヨガの根幹はプラーナーヤーマにあり、プラーナーヤーマとは、プラーナ(気)をコントロールすることだそうです。
以前ご紹介したように、『ヨーガ 本質と実践』(産調出版:刊)によると、ヨガでは、肉体を取り巻く2つの霊的なからだ、アストラル体(幽体)とコーザル体(原因体)があると考えますが、プラーナは、このアストラル体と肉体を結ぶ生命の絆とされます。
また、チャクラは、アストラル体におけるエネルギーセンターで、チャクラからプラーナが出入りするそうです。そして、チャクラから取り込まれたプラーナが、人間の生命活動をつかさどるエネルギーとなるそうです。
アストラル体には、プラーナの通り道が無数にありますが、その中で最も重要なのが、肉体の脊髄に相当する部分にあるスシュムナーとよばれる管です。ハタ・ヨガの最終目標は、第一チャクラ(背骨の最下端)にあるクンダリニー(潜在エネルギー)を覚醒させて、スシュムナーのなかを頭の頂上まで貫き上らせることです。
クンダリニーがスシュムナーを貫くと、プラーナがこの管のなかを自由に流れるようになり、この管の六か所にあるチャクラが活性化し、それぞれのチャクラに眠っていた才能が発現するようになるそうです。そして、プラーナが頭頂近くにあるブラハマ・ランドラという神聖な室のなかへ流れ込んだときに三昧の状態が現れるそうです。
実は、こういった現象はハタ・ヨガに限ったことではなく、太極拳の修行によっても経験できるようです。『「悟り」の意味』(島田明徳:著、地湧社:刊)という本にそのことが書かれているので、少しご紹介しましょう。
著者は、文化大革命で中国を追われて来日していた太極拳の達人、陳驢春(ちんろしゅん)老師に陳氏太極拳を習ったそうですが、「小周天」という、気を体内に巡らせる修行に励んでいたある夜、尾てい骨のあたりから強烈な熱気が昇るのを体験したそうです。また、さらに修行を積んでいったある日、立禅の修行中に意識が肉体を超えてどんどん拡大し、自分が世界と一体であることを悟ったそうです。
太極拳で扱う気は、ヨガのプラーナと同一であると考えられていますから、島田氏が体験した熱気の上昇は、ハタ・ヨガで説かれているクンダリニーの覚醒に相当すると考えられます。また、意識の拡大は、『ヨーガ・スートラ』に書かれている「大脱身」(心のはたらきが実際にからだの外でなされている状態)に近いのかもしれません。
いずれにしても、場所も方法も異なるヨガと太極拳が、極めると似たような結果に至るというのは非常に興味深いですね。なお、立禅とは、少林寺に伝わる「少林内功一指立禅」のことで、この修行によって、全身の気の流れを整え、手指から出る気の力を強化することができるそうです。 (2012年7月8日)
5.悟りの本質
これまで、悟りに至る手法について述べてきましたが、ここからは悟りの本質について自分の考えを述べたいと思います。
まず、悟りについて語る場合、死後の世界の存在や、輪廻転生のことを無視することはできません。死後の世界は霊界ともよばれますが、霊界は数学に例えると虚数のようなものだと思います。
虚数iは、i×i=-1という不思議な数で、あるのかないのかよく分からない数ですが、虚数を導入することによって二次方程式は必ず解くことができるようになります。
霊界も、あるのかないのかよく分からない世界ですが、霊界が存在すると考えれば、悟りの本質を理解することが可能になります。
この世の人は、自分が誰でどこから来たのか知りませんが、その理由は、この世が精神的な修行の場だからだと多くの宗教家が説いています。これはどういうことかというと、もともと我々の故郷は霊界にあり、普段はそこで楽しく暮らしていているのですが、霊界では思ったことがすべて実現するので、そこにいても精神的に向上することが難しいそうです。
そこで、ときどき修行のためにこの世に生まれてくるわけですが、その際、霊界での記憶が残っていると修行にならないので、生まれてくるときにそれまでの記憶を消去するのだそうです。つまり、我々は永遠に生き続ける精神的な存在であり、人生の大きな目的は自分自身を精神的に向上させることで、そのために各個人のレベルに応じた課題をこなすべく今の人生を生きているというのが真相のようです。
ところで、修行というと、山にこもって滝に打たれることを想像する人もいるでしょうが、実はこの世界の日常生活が即修行なのです。金光教には、「この方の行は水や火の行ではない、家業の業ぞ」という教えがありますが、それぞれの職業を怠りなくつとめ、円満な家庭と豊かな人間関係を築くことこそがこの世の真の修行なのです。
しかし、我々凡人は、とかく目に見える物質的な世界だけが現実だと錯覚しがちで、つい富や権力や名声といった、本当は価値のないものに目を奪われてしまい、結局、本来の修行の目標を見失ってしまうことが多いものです。そこで、人々の修行が成就するようサポートするため、指導的な立場の高級霊が、入れ替わり立ち替わりこの世に現われて、様々な教えを残しているのだそうです。
私の考えでは、お釈迦さまも、生まれる前から完全に悟っていた偉大な高級霊だったはずで、お釈迦さまが悟ったのは決して偶然ではなく、人々を指導する使命を果たすために悟ってみせたのだと思います。その使命とは、真理を教えるだけでなく、極端な肉体修行には意味がないことを身をもって示し、真理の教えを継承する人たちに正しい修行方法を伝授することだったのではないでしょうか。
なお、悟ったからといって誰でもお釈迦さまのようになれるわけではありません。霊界は様々なレベルに分かれているそうですから、悟った人の悟りのレベルも様々なはずです。過去・現在・未来をすべて見通すような究極の悟りは、人類創造に関与したごく少数の高級霊だけが到達できるようです。
しかし、だからといって凡人が悟ろうと努力することが無意味だというわけではありません。たとえ悟ることができなくても、悟ろうと努力する過程で真理を学ぶことができるはずですから、来世以降の霊的な進化が大いに期待できるでしょう。
これまでのことをまとめると、人間には自分自身も知らない智慧が眠っていて、しかも、その智慧に到達する手段が存在します。悟りの本質とは、このことを証明してみせることにある、と言っても過言ではないでしょう。悟りによって超能力が出現するのも、それを万人に知らしめるためだと思われます。
もちろん、悟りには、悟った本人が霊的に進化するという意味も大いにあるのですが、それ以上に、霊界の存在と人間の霊性を世間に広く知らしめ、人々が自分の人生を見つめ直すきっかけを与えることに意味があるのではないかと私は思っています。
一方、ユダヤ教やキリスト教では、悟るということにあまり重点を置いていないようです。次回からは、悟りではなく、祈りに重点を置く生き方をご紹介しましょう。 (2012年7月14日)
6.ユダヤ教
イスラエルの首都エルサレムには、かつてソロモン王が建設した神殿の名残りである「嘆きの壁」があります。私も、この壁に向かって祈るユダヤ教徒の姿をテレビで見たことがありますが、ユダヤ教とはどのようなものなのでしょうか?
『聖書』(フェデリコ・バルバロ:訳、講談社:刊)によると、ユダヤ人の起源は約3800年前までさかのぼります。紀元前1800年頃のことですが、ユーフラテス川上流のハランに住んでいたアブラハムが神と出会い、彼は神の命じるまま家族と旅に出ます。アブラハムには子どもがなかったのですが、神は、アブラハムが99歳のときに彼と契約を結びます。
「私は、エル・シャッダイ。
おまえは、私の前に歩み、
全き者となれ。
私は、おまえと私との間に
契約を定め、おまえの子孫を大いにふやす、
大いにふやす。」
この後、高齢のアブラハムはイサクという男子を授かり、その息子(アブラハムの孫)のヤコブには、12人の息子(ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ザブロン、ヨゼフ、ベニヤミン、ダン、ネフタリ、ガド、アシュル)が誕生します。この12人の息子たちが、エジプトに移住して大いに栄え、12の部族を形成しますが、紀元前1240年頃にモーゼに連れられてエジプトを脱出し、現在のイスラエルに移住して国家を建設します。なお、イスラエルはヤコブの別名であり、これがヤコブの子孫の総称となりました。
ところで、イスラエルの民は、モーゼが数々の奇跡を見せている間に、仔牛の黄金像を鋳造してそれを拝むという偶像崇拝事件を起こしています。これは、エジプトでの生活が長かったせいで、アブラハムの神に対する信仰をかなり失っていたからだと思われます。
モーゼの時代に、神は様々な戒律を定めます。イスラエルの民が堕落していたせいか、戒律の数はうんざりするほど多いのですが、その教えの本質は清く生きることだったようです。聖書のレビの書、第20章にはこう書かれています。
「清く生きよ、聖なる者であれ。おまえたちの神なる主、私は聖なるものだからである。」
イスラエルは、紀元前970年に即位したソロモン王のときに繁栄を極め、壮麗な神殿が建設されます。しかし、このソロモン王は、異国の女を多く愛したそうで、晩年には、この女たちが持ってきた異国の神々を拝むようになってしまいます。
ソロモン王の死後、イスラエルは、ユダ族とベニヤミン族から成るユダ王国と、残りの10部族から成るイスラエル王国とに分裂しますが(紀元前931年)、バアルという神を信仰するようになったイスラエル王国は紀元前720年に滅亡します。
また、偶像崇拝がはびこるようになったユダ王国も、紀元前587年、新バビロニア王国によって征服され、エルサレムの神殿は破壊され、貴族や司祭などの多くの知識人がバビロンに移住させられました(バビロン捕囚)。なお、ユダヤとは、ユダ王国の領土を指す地名です。また、ユダヤ人とは、ユダ王国の国民の総称でしたが、バビロン捕囚以降は、ユダ王国の末裔を指す言葉となりました。
やがて、紀元前538年に、ユダヤ人は許されてユダヤに戻り、紀元前520年頃にエルサレムの神殿が再建されます。厳しい迫害を受けたユダヤ人の多くは、祖先の信仰を失っていましたが、この神殿再建を機にユダヤ人は団結し、神がモーゼの時代に定めた様々な戒律を復活させ、ユダヤ教が成立していきます。
ユダヤ教は、ユダヤ人のアイデンティティーを守るという大きな役割を果たしますが、皮肉なことに、戒律を守ることにこだわりすぎて、次第に形式主義に陥ってしまいます。そして、最後には、ユダヤ教徒は「神のひとり子」であるイエス・キリストを殺してしまうことになるのです。 (2012年7月22日)
7.ユダヤ人とキリスト
聖書には、「ヘレムに処す」という言葉が数多く出てきます。「ヘレム」とは供え物で、神が獣の丸焼きを供え物として要求したことから、皆殺しにするという意味になったようです。ちなみに、似たような意味で「ホロコースト」という言葉がありますが、こちらは、ユダヤ教の儀式で用いる獣の丸焼きを意味するギリシア語だそうです。
イスラエルの民をエジプトから連れ出した神は、モーゼの死後、民を現在のイスラエルの地に導きますが、その際、もともとこの地方に住んでいた人々を「ヘレムに処す」よう命令します。それも、兵士だけでなく、女、子どもや家畜に至るまで皆殺しにすることを度々要求しています。
アブラハムの神がなぜ殺戮を好んだのか理由は不明ですが、それ以降、イスラエルの地では、民族の存亡に関わるような激しい戦闘が幾度となく繰り広げられてきました。ある意味、イスラエルの民は、神によって殺し合うことを義務付けられた存在だったのです。
また、イスラエルの民は、モーゼ以降も神の奇跡を何度も目撃しますが、神の本質に迫ろうとはしなかったようです。もっとも、いつ滅ぼされるか分からないような状況下では、真理を探究するとか、修行して悟りを開くという発想が育たなかったとしても無理はないと思います。これは私の想像ですが、数多くの奇跡を行なった偉大な預言者たちでさえ、人生の意味を理解していなかったのではないでしょうか。
紀元前587年にユダ王国が滅亡してからは、ユダヤ人は長い間しいたげられてきましたが、厳しい戦いの末、紀元前142年になってやっと独立を果たします。しかし、それも束の間で、紀元前63年にはローマに征服されて属国となり、キリストの時代には、ユダヤ人はある程度の自治権を認められてローマ兵の監視の下に生活していたようです。
キリストは、敵を愛し、迫害する者のために祈るよう教えましたが、これは、これまでのユダヤ教の教えと真逆のことだったので、これを受け入れることには相当抵抗があったと思われます。これでは、多くの民族をヘレムに処してきた祖先の行為は何だったのかということになりますから、ユダヤ人の多くがキリストに拒否反応を示したのは、当然と言えば当然なのです。
また、律法をかたくなに守ろうとするファリサイ派の人たちが多かったことも大きな問題でした。英語の「pharisaic」という単語を辞書で引くと「形式主義的な」という意味が出てきますが、この単語の語源となったのが、ユダヤ人の中のファリサイ派という人々です。
彼らは、律法を形式的に守ることに固執しすぎて、律法の精神を忘れてしまった人たちで、キリストが安息日に病人を治したことが我慢できなかったのです。これは、現代の我々にはちょっと理解できないことですが、実は、こういう人たちは今のイスラエルにも存在しています。
2009年7月のことですが、イスラエルのエルサレムで「超正統派」のユダヤ教徒が警察と激しく衝突したというニュースが流れました。衝突の理由は「駐車場の営業」で、エルサレム市が違法駐車対策として土曜日にもこの駐車場を営業することにしたのが原因です。
土曜日(正確には、金曜日の日没から土曜日の日没まで)は、ユダヤ教徒にとって、神が一切の労働を禁じた「安息日」(あんそくび、または、あんそくじつ)であるため、「超正統派」のユダヤ教徒が市の決定に抗議して、今回の衝突となったそうです。
「安息日」とは、大昔、モーゼが、エジプトの奴隷だったイスラエルの民を引き連れてシナイ半島の荒野をさまよっていたとき、神が、飢えた民に6日間マンナという食べ物を与え、7日目は「主をとうとぶ聖なる安息日」として民を休ませたことが始まりです。
その後、神がモーゼに与えた十戒の4番目に、安息日のことが次のように書かれています。(フェデリコ・バルバロ:訳、講談社:刊、『聖書』より)
「安息日を聖とすることを、つねに思い出せ。六日の間、働いて、自分の仕事をせよ。七日目は、神なる主の、安息日である。どんな仕事もするな。」
イスラエル政府観光省のホームページを見ると、安息日には鉄道は完全に運休し、バスもほとんど運休すると書かれています。そういうお国柄ですから、「超正統派」のユダヤ教徒からすれば、安息日に駐車場を営業することなどもってのほかということなのでしょうね。 (2012年7月29日)
8.メシア思想
ユダヤ人を理解する上で、重要なキーワードが一つあります。それは「メシア」です。
かつて、イスラエルの王は、即位の際に油を注いで聖別され、「メシア」とよばれました。「メシア」とは、ヘブライ語で「油を注がれた者」という意味です。ちなみに、「キリスト」という言葉は、「メシア」のギリシャ語訳(クリストス)に由来しているそうです。
メシアの到来は、預言者たちによって予言されていたので、ユダヤ人たちはメシアに対してある信仰を持っていました。その信仰とは、メシアが天国の門を開いてくれるという信仰です。
ユダヤ教では、善人が死ぬと、その霊は「リンボ」という場所にとどまって、天国の門が開かれるのを待っていると考えられていたそうです。そして、天国の門を開くことができるのはメシアだけだったので、ユダヤ人たちは、長い間メシアが現われるのを待ち望んでいたのです。
したがって、天国の門を開いてくれるメシアを待ち望んでいた人々は、キリストを理解することができたのですが、現実世界の王としてのメシアを待ち望んでいた人々は、キリストに失望することとなりました。例えば、あの裏切り者のユダは、キリストを現実世界の王だと誤解した一人だったのです。
さて、キリストが、「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」と、これまでのユダヤ教の教えと真逆のことを言ったのはなぜでしょうか? もし、キリストの役割が、本当に天国の門を開くことであれば、答えは簡単です。この時期に、霊界の仕組みが大きく変わろうとしていたのだと思われます。
キリストが生きていた時代のことは、新約聖書に書かれていますが、実は、他にも当時の様子を知る手段があります。それは、現代の人が霊感を受けて書いたキリストの物語です。なかでも『神と人なるキリストの詩(うた)』という本は、正確かつ詳細な描写で有名です。
この本の著者は、イタリアのマリア・ワルトルタという女性です。彼女は、1961年に65歳で亡くなったのですが、亡くなるまでの28年間は病気で寝たきりだったそうです。しかし、彼女は深い信仰を持ち、寝たきりの彼女のところには、キリストや聖母マリアがたびたび出現し、彼女はキリストの全生涯を見せてもらったそうです。
その様子を綴った彼女の著作、『神と人なるキリストの詩』は、日本語にも翻訳されていて、その中の一冊である『イエズスに出会った人々』(マリア・ワルトルタ:著、フェデリコ・バルバロ:訳編、あかし書房:刊)には、次のようなキリストの教えが書かれています。(ガリラヤ湖近くの村の会堂での説教、44ページの終わりから)
「イスラエルのおまえたち! 贖いの時が来ました。善意をもって、心にその道を準備しなさい。正しく、心の善い人であり、愛し合いなさい。金持ちは他人(ひと)を軽蔑してはならない。商人たちは詐欺をしてはならない。貧しい人々は他人をねたんではならない。皆、同じ血が流れ、同じ神のものではないか。皆、同じ運命に召されています。メシアが開こうとする天の扉を罪で閉じてはならない。これまでに過ちをしたことがありますか。二度と再びそれをしてはならない。すべての過ちを避けて通りなさい。律法は最初の十の掟に要約されるが、この掟のすべてが愛の光に浸されています。律法は簡潔で、良く、分かりやすいものです。
私のところにいらっしゃい。私が、掟はどんなものか教えます。愛、愛、愛です。おまえたちに対する神の愛、神に対するおまえたちの愛、隣人同士の愛、常に愛に生きなさい。なぜなら、神は愛で、愛に生きることを知っている人々こそ父の子たちです。」
ここでキリストは、「メシアが開こうとする天の扉を罪で閉じてはならない」と言っています。彼は、これから天国の門が開かれるので、人々が天国に入るのにふさわしいものとなるよう、愛の教えを説いたのではないでしょうか?
もう少し具体的に言うと、キリストが十字架に磔にされて人々の罪を贖うことによって、人類は霊的に一段進化することが可能になるため、その進化に見合った生き方をするよう、律法を更新しようとしたのではないでしょうか?
いずれにしても、こうして、殺し合うことから愛し合うことへ180度方向転換したユダヤ人の集団が生まれ、これが後にキリスト教へと発展していきました。キリスト教は、言い換えればメシア教ですから、ユダヤ人のメシア思想は、キリスト教において具現化したと言うことができるのです。 (2012年8月5日)
9.サタンと悪魔
旧約聖書に比べて、新約聖書には「サタン」や「悪魔」という単語が非常に多く出てきます。しかも、旧約聖書では、サタンに関する記述は比喩的・抽象的なのに対し、新約聖書では、サタンが具体的に描写されており、キリストとサタンの戦いが新約聖書の重要なテーマとなっています。
なお、聖書では、固有名詞である「サタン」と普通名詞である「悪魔」を使い分けています。サタンは、ヘブライ語で「敵」という意味だそうで、キリスト教では、天国から追放された大天使ルシファーを指しますが、人間は悪魔を区別できないので、ルシファーに従った天使たちのこともサタンと総称するようです。
キリストは、ヨルダン川で洗礼を受けた後、荒野で40日間の断食を行ないますが、その際、初めてサタンと出会い、誘惑を受けます。しかし、有名な「サタンよ、退け」という言葉でサタンを撃退します。このときのサタンは、まさしくルシファーだったと思われます。
キリストの時代には、悪魔に取りつかれた人が多かったようで、新約聖書には悪魔つきの話がよく出てくるのですが、興味深いことに、キリストは、悪魔を追い出して病人を治しても、悪魔を改心させることはなかったようです。
例えば、ガリラヤ湖の近くのガダラという町へ行く途中、キリストの一行は二人の悪魔つきの男に出会います。彼らは、素っ裸の乱暴者だったのですが、キリストに名前を名乗るように命令されて、自分たちは大勢なので「軍団」だと名乗り、自分達を追い出すのなら、豚に入らせてくれと頼みます。キリストがそれを許すと、悪魔たちは二人の男から出て、近くにいた豚の群れに襲いかかり、豚の群れは狂ったように走り出して湖に飛び込んで溺れ死にするのです。
テレビなどでは、よく霊能者が浄霊する場面が出てきますが、なぜキリストは浄霊しなかったのでしょうか? あるいは、キリストの力をもってしても、除霊はできるが浄霊はできないということなのでしょうか?
これは私の想像ですが、浄霊できるような悪霊は、元々人間だったり動物だったりするので霊力が弱く、悪霊になってからの年数も短いため、説得によって改心させたり、お経や呪文の力によって成仏させることが可能なのだと思います。
しかし悪魔は、かつて天使だったため霊力が強く、しかも神に強い恨みを抱いたまま非常に長い時間(おそらく数千年から数万年以上)経過しているので、改心させることが不可能なのだと思います。
なお、霊の憑依現象は現代でも日常的に起こっているようです。異常な行動をとる人は、現代では精神病とみなされ、すぐに精神病院に隔離されてしまいますが、精神病の多くが悪魔による憑依現象ではないかと私は思っています。
また、完全に憑依されなくても、悪い霊の働きによって病気になったり、事件や事故に巻き込まれることもあるようです。私自身も、稀にちょっとしたことで無性に腹が立つことがあるのですが、こういったことも悪い霊の働きによって憎悪が増幅されているのかもしれません。 (2012年8月12日)
10.マグダラのマリア
人間に取りついた悪魔は、神の権威を貶めるため、人間の品位を汚す様々な行動を人間にとらせます。ただし、素っ裸で暴れていれば、明らかに何かに取りつかれていると分かりますが、淫乱の場合は、見掛け上普通の人のように見えるので、周囲の人が気付かないこともあります。
今回ご紹介するマグダラのマリアは、まさにそういった一見正常な女性のケースです。聖書には、マグダラのマリアは七つの悪魔に取りつかれた女だと書かれています。ただし、彼女に関する聖書の記述は断片的で、ちょっと理解しにくいので、『マグダラのマリア』(マリア・ワルトルタ:著、フェデリコ・バルバロ:訳編、あかし書房:刊)という本に描かれているマリアをご紹介しましょう。
キリストは、十二使徒の一人である「熱心もののシモン」の紹介で、ユダヤ一の大富豪であるラザロと知り合います。彼は、律法を厳格に守る真のイスラエル人で、聡明な人格者だったため、ユダヤ人から尊敬され、ローマからも一目置かれていました。
彼には、マグダラのマリアという妹がいましが、彼女は、長身・金髪の美女で、性的に自由奔放な生活を送っていたため、家族の恥となっていました。なお、マグダラは地名で、お金持ちの別荘が立ち並ぶ保養地のような場所だったそうです。マリアは、普段はマグダラにあるラザロの別荘で生活していたため、マグダラのマリアとよばれていたのです。
ラザロは、キリストが自分の妹のことを知っていると聞き、大いに恥じますが、キリストはラザロに、彼女は病気だから許すように言い、彼女に奇跡を行なうことを約束します。
マグダラのマリアは、最初はキリストを挑発するような行動をとりますが、何度かキリストの言動や教えを見聞きするうちに、徐々にこれまでの生活を嫌悪するようになり、ついに改心してキリストの弟子になります。
この様子は、新約聖書のルカによる福音書第七章の後半に書かれています。キリストが、ファリサイ派のシモンという人の家の宴会に出席していたとき、着飾ったマグダラのマリアが突然現れ、身につけていた宝飾品をすべてキリストの足元に置き、泣きながらキリストの足に接吻し、香油を塗ります。
このとき、キリストはシモンに向かって、例え話を使って、多く愛した人は多く許されると説き、マグダラのマリアには、「あなたの罪は許された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言いました。
キリストは、『マグダラのマリア』の著者であるマリア・ワルトルタに対して、マグダラのマリアのこととを次のように語っています。「彼女は、私の福音の最も偉大な復活者です。彼女は、七つの死からよみがえって新たに生まれた。」
腐敗した魂を復活させたキリストは、マグダラのマリアに対してさらに偉大な奇跡を見せます。それは腐敗した肉体の復活です。
ラザロは、キリストに会う前から足の具合が悪かったのですが、足の静脈に沿ってできた腫れ物が腐敗し、瀕死の状態になります。ラザロを見舞ったキリストは、マグダラのマリアに、ラザロが死んだら自分を呼ぶように命令し、すべての現実を超えて、希望し、信じることを求めました。
結局、ラザロはとても苦しんだ末に亡くなり、腐敗がひどかったためすぐに埋葬され、数日後に葬式が執り行なわれました。そこにキリストが到着し、ラザロの墓に案内されると、彼は墓穴を塞いでいる重い石を動かすよう命じます。
墓穴の口が開くと、キリストは両手を十字に伸ばし、神に祈りをささげ、「ラザロ! 外へ出よ!」と叫びます。その声に応じるように、包帯でぐるぐる巻きにされたラザロがゆっくりと墓の外に出てきて、驚く人々の前に姿を現します。
彼の包帯を解いて身体を清めてみると、足の病気は完治していて、痩せてはいるものの、彼はすっかり元気になっていました。マグダラのマリアは、この奇跡を見て、完全に信仰に生きる人となりました。
その後、キリストが逮捕されたとき、ヨハネ以外の十二使徒はキリストを見捨てて逃げ出しましたが、マグダラのマリアはキリストの処刑に立ち会い、弟子たちの中で最初に、復活したキリストに出会います。彼女は、かつて悪魔に取りつかれた女でしたが、ついに信仰において十二使徒を超えた存在となったのです。 (2012年8月26日)
11.サタンの誘惑
悪魔は、人間をどのように誘惑するのでしょうか? これは非常に興味深い問題ですが、具体的なことは私にも分かりません。
しかし、前々回、キリストがサタンから誘惑されたというお話をちらっとご紹介しましたが、そのときの様子が参考になるのではないかと思っています。
『イエズスに出会った人々』(マリア・ワルトルタ:著、フェデリコ・バルバロ:訳編、あかし書房:刊)という本には、サタンがキリストを誘惑する様子が詳細に描かれているので、今回はそれをかいつまんでご紹介しましょう。
キリストは、ヨルダン川で洗礼を受けた後、石ころだらけの灼熱の荒野で40日間の断食を行ないますが、その最後にサタンがやって来ます。
サタンは、頭にターバンを巻いたベドウィン族のような姿をして現われ、岩陰で休んでいたキリストに近づき、こう言います。
「この人間に君臨しているのは私だが、あなたをあわれんでいるし助けたい。あなたは善い方で、何の効果がなくても自分を犠牲にするために来たのですから。人間どもはあなたのその慈悲のために憎むでしょう。人間は、金銭、食欲、快楽しか知らない。」
「ねえ、大事なことは勝利を得ることですよ。一度、自分の魅惑で人をつかみさえすれば、その後は自分が望むところならどこでも引っ張れます。しかし、そこから先はその人たちが気に入るようなものであるべきです。」
「いいですか。女の仲間を一人つくりなさい。あなたにできないところが、その女にはできます。あなたは新しいアダムです。自分のエバをもつべきです。」
「男はなぜ人の上に立ちたいか。なぜ富と力のある者でありたいか。女を所有したいからです。女とはヒバリのようなもので、つかまえるためには鏡をきらきらさせねばなりません。金と権力は、女を引きつける鏡の両面をなし、この世の大半の災いの理由になっています。」
「生きることを実感したいならば女のもとへ行け。その後でなければ、人類のさまざまの病気を治せるわけがない。」
女について延々と力説していたサタンは、キリストが飢えていることに気がつき、話題を変えます。
「神の子であるあなたが、”私は望む”と言うだけで、この石は主婦が夕食のためにかまどから取り出したばかりの焼き立ての香ばしい匂いがするし、また、この枯れきったアカシアに甘いりんご、密、しゅろの実がたわわに実ります。」
「気の毒なイエズス、奇跡が起こるように命令もできないほど弱ってしまったのか。私があなたの代わりをしようか。」
「私にこの奇跡が行なえるように、あなたの祈りで助けなさい。」
それまで、サタンを無視していたキリストは、突然こう叫びます。
「だまれ、”人はパンだけで生きるのではない。神の口から出るすべてのことばによって生きる”」
サタンは一瞬ひるみますが、さらに誘惑を試みます。
「霊的な一つの奇跡を行ないなさい。私はあなたを神殿のてっぺんに運び、そこであなたは自分の美しさと威厳とを現わして、天使の軍団を招集します。天使たちはそれぞれの翼を重ね合わせて踏み台をつくり、あなたが神殿の一番大きな庭に下りられるようにします。こうすれば、皆あなたを見て神がいることを思い出すはずです。」
しかしキリストはこう反論します。「神なる主を試みるなと言われています。」
サタンはさらに続けます。「それなら来て、私を拝みなさい。あなたに地上を与える。」
「私を一瞬間だけ拝め! 礼拝されたいこの私の渇きをいやせ! 私を滅ぼさせたのは、この渇きだった。」
「おお、善いお方であるキリストよ、一瞬間だけください。永遠に苦しめられるものに喜びの一瞬を! 神であることが何を意味するか私に感じさせれば、あなたの全生涯のすべての企てに仕える下僕のように従順なものとなります。一瞬! 一瞬だけ。そうしたら、私はもうあなたをいじめることはあるまい!」
サタンは、こう請い願いながら、ひざまずいてひれ伏しますが、入れ替わりにキリストが立ち上がり、雷鳴のような大声でこう叫びます。
「サタン、退け。”神なる主を礼拝し、ただ神だけに仕えよ”」
このキリストの言葉に、さすがのサタンも唸り声をあげて立ち上がり、荒れ狂いながら消えていきました。
サタンが語った「人間は、金銭、食欲、快楽しか知らない」という言葉は、皮肉なことに2000年後の現代でも変わらない真実のようです。
拝金主義はますます世界を覆い、開発という美名のもとに自然は破壊され、地球上の生物が存亡の危機に立たされているにもかかわらず、人々は美酒美食や快楽に興じています。これを人間の堕落と片付けるのは簡単ですが、はたして本当にそれだけのことなのでしょうか?
聖母マリアはこう予言しています。(「予言の解釈-7.聖母マリアの予言」を参照してください)
「一八六四年にはルシファーは多くの悪霊とともに鎖を解かれ地獄から解放されるでしょう。」
「そして暗黒の霊が世界中にその力をのばしてくるでしょう。」
サタンは、我々を直接誘惑することはないかもしれませんが、霊的な影響力を行使して人間の欲望をかき立て、彼らが望む方向に人類を誘導しているのかもしれません。我々は、サタンに誘惑されないよう、常に自分自身の行動や心の在り方をチェックする必要がありそうです。 (2013年1月1日)
12.祈りの力
これまでご紹介してきたように、悪魔との戦いがキリストの重要な使命だったわけですが、こういう状況は、アブラハム以前の古代中東においても同様だったと思われます。神に滅ぼされたことで有名なソドムやゴモラでも、悪魔の影響によって悪徳がはびこっていたのかもしれません。
これは私の想像ですが、古代の中東では悪魔を崇拝する人々が多かったので、それに対抗するため、神はアブラハムと契約して神の民族を立てることを決意し、その子孫が十分な数まで増えた頃を見計らって、モーゼを通じて人々が守るべき戒律を与え、イスラエルの地に移住させたのではないでしょうか?
神が、もともとイスラエル地方に住んでいた人々を女や子どもに至るまで皆殺しにするよう命じたのも、ひょっとすると悪魔崇拝の根を断ち切るためだったのかもしれません。
さて、悪魔が現在もこの世界に悪影響を及ぼしているとして、それを回避するにはどうしたらよいのでしょうか? その答えは、「祈り」にあるようです。
今回は、それに関係すると思われる本を、国立国会図書館デジタルコレクションというサイトで見つけたのでご紹介します。それは、『死後の世界』(ワアド(J.S.M. Ward):著、浅野和三郎:訳、嵩山房:1925年刊)という本です。
この本には、著者が自動書記や霊夢などの霊界通信によって得た霊界の情報が詳しく載っているのですが、特に興味深いのが、奈落の底まで落ちた陸軍士官の話です。
この陸軍士官は、生前から殺人、誘拐、詐欺などの犯罪を重ねた人物ですが、ある日、交通事故で死んでしまいます。なお、彼はロンドンで生活していたそうなので、イギリス人だったと思われます。
最初、彼は死んだという自覚がなく、死後もこの世界を歩き回っていたのですが、近くにいた霊に死んだことを教えられ、同時に、酒を飲みたかったら酒場で泥酔している人間に憑依すればよいことなどを教わります。
彼は、人に憑依することによって死後も悪事を重ねていましたが、かねてから仇敵であった人物が心霊現象に興味があり、幽体離脱にチャレンジしていることを知り、その人物が幽体離脱した隙に憑依して肉体を乗っ取り、強盗殺人事件を起こしてその仇敵を死刑に陥れることに成功します。
しかし、彼はその後急に身体が重くなり、ついに地下へと落下し始め、気がつくと古代のローマのような場所にいました。そこは、凶悪な人間の霊ばかりが集まっている、非常に暗くて汚い場所で、最も凶悪な人物が皇帝としてそこを支配していました。
霊界では、精神力の強さで強弱が決まるそうで、この陸軍士官は、持ち前の凶悪な性格と強い精神力でたちまちのし上がり、皇帝から大将軍に任命され、敵対する国を攻め滅ぼし、一国の王となります。
彼は、凱旋した際に、皇帝から地上に戻る方法があることを聞かされ、自分の国に戻ると早速、魔術に詳しい者を探し出してその方法を聞き出します。
その方法とは、地上の魔術師が悪魔を呼び出す呪文を唱えているときに、同じ呪文を唱えて同調するというもので、彼はちょうどドイツ人の魔術師が悪魔の召喚をやっているのを感知し、呪文を唱えて再び地上に戻ります。そして、その魔術師と共謀して、寝ている人に憑依して金庫破りをしたり、人を怖がらせて自殺に追い込むといった悪事を重ねます。
そんなある日、一人の若い聖職者が、この魔術師の悪事に気づき、魔術師の家に押しかけて来たため、魔術師はこの聖職者を殴って気絶させ、配下の女と肉体関係を結ばせて聖職者の評判を落とそうとします。
しかしそのとき、この聖職者の守護天使が現われ、魔術師を聖なる火で焼き殺してその魂を地獄に落とすとともに、陸軍士官やその他の悪霊たちもその火で焼きました。
陸軍士官は、再び下へ下へと落下し、以前落ちた場所よりもさらに暗い所にたどり着きます。そこは、本当の悪魔が棲んでいる世界で、彼らは鞭のようなものを打ち振りながら人間を追い立て、人間が倒れると錐のようなもので刺すので、そこの人間たちは休むことなく走って逃げ回るしかないのでした。
この光景は、仏教の地獄の様子に近いと思われますが、悪魔は人間が憎くてたまらないから人間をいじめているのであって、刑罰を加えるという意識はないそうです。
彼は、最初は悪魔を倒そうとしますが、全く歯が立たず、逆に殴られるばかりだったので、ついに音を上げて、助かる方法を悪魔に尋ねます。
悪魔は、100人の霊魂をここに連れてきたら仲間にしてやると言い、黄金に執着している霊たちがいる場所に彼を送ります。彼は、悪魔を崇拝すれば黄金を守ることができると言ってこの人たちをだまし、悪魔崇拝の儀式を行なうことによって彼らを悪魔たちの棲む世界に落とします。
彼はこれで助かったと思いますが、実は悪魔にだまされただけで、結局悪魔に追い立てられる状況は変わらず、さらに、黄金に執着していた人たちからも八つ裂きにされるという苦痛を受けます。
彼は必死に逃げますが、そのうち再び下へ下へと落下し始め、ついに暗黒の世界で身動きがとれない状態になります。そこは、音も光もなく、声を出すことさえできない絶望的な世界で、彼はここで非常に長い間苦しんだそうです。
そんな状態の陸軍士官を救ったのは、祈りでした。絶望の中、彼は次第にキリストのことを考えるようになり、神にすがろうという気持ちが湧いてきます。しかし、なかなか祈祷の言葉を思い出せなかったのですが、ついに一つの短い祈祷文を思い出し、これを繰り返したそうです。
すると、不思議なことに身体が軽くなって上昇し始め、とうとう暗黒の世界を抜け出します。彼は、その後も非常に苦労を重ねますが、途中からは天使にも助けられ、やっとのことで光の世界にたどり着くことができたそうです。
この世界は、悪魔や悪霊が暗躍する、とんでもない世界のようです。しかし、以前の記事(5.悟りの本質)でご紹介したように、この世が「精神的な修行の場」だとすれば、まさに修行のやり甲斐のある絶好の場所だと考えることもできます。
しかも、人は孤立無援の存在ではなく、常に神仏の守護を受けていて、祈ることによってその力を増すことさえ可能なようです。祈りによって奈落の底に落ちた悪霊が救われるのであれば、この世で普通に生きている人はなおさら祈ることによって救われるに違いありません。
下の図は、霊界の下層の説明図(『死後の世界』より)。陸軍士官は、直接暗黒三部に落ちた後、地上 → 暗黒二部 → 暗黒一部へと転落し、上昇する際は、全ての段階を苦労して進んだそうです。 (2013年2月1日)
13.守護強化と願望成就
前回は、祈りの力が想像以上に大きいことをご紹介しましたが、今回は、祈りが必要な理由をさらに明確にしたいと思います。祈りには、大きく分けて2つの働きがあるようです。1つは神仏との結びつきを強める守護強化、そしてもう1つは、願望成就です。
まずは、守護強化の祈りが必要な理由を、前回に続いて霊界の現象から説明しましょう。
前回ご紹介した陸軍士官は、浮遊霊的な悪霊でしたが、この世には地縛霊的な怨霊もたくさんいるようです。今回は、やはり国立国会図書館デジタルコレクションで見つけた『悪霊の活動:千古疑問』(伊予田英照:著、万灯山:1922年刊)という本を簡単にご紹介します。
著者の伊予田氏は、もともと実業家でしたが、仏教を深く信仰しており、従業員が難病にかかって医者に見放された際に、病気平癒を熱心に祈願したところ、見事に完治したそうです。
伊予田氏は、これを機に事業をやめて修行を積んだ結果、弘法大師の出現を受けるとともに、無数の悪霊が病人に襲いかかっている光景を見せられ、病気の原因は怨霊の祟りであることを教えられたそうです。
その後、彼は、弘法大師から一切諸病を治す加持の法と病気災難の根を抜く祈祷の法を伝授され、加持祈祷によって、当時は死病だった肺結核の患者をはじめ数多くの難病人を救ったそうです。
伊予田氏によると、この世には怨みを抱いた霊が数多くとどまっていて、復讐の機会をうかがっているそうです。彼らは、仇とする者やその子孫が神仏の守護を受けられなくなるまで辛抱強く待ち、害をなすのだそうです。
彼が実際に体験した例としては、100年程の間に50人以上を取り殺した怨霊がいたそうですし、動物霊でも、殺された蛇が11人を取り殺したことがあったそうです。
また、古戦場や墓地を整理して造成した場所では、安住の地を奪われた地縛霊たちが祟りをなすことが多く、中には、強力な怨霊となって、目に見えない無数の虫の霊を使って疫病を発生させる場合もあるそうです。
こういった祟りや因縁があることは、金光教でも認めていて、それを回避する方法を次のように教えています。(金光教については「日本の霊性-7.天地金乃神」という記事をご覧ください)
「どのような大きなめぐりがあっても、信心によって取り払ってもらえる。先祖からのめぐり、祟りは、神が道のつくようにしてくださる。」
つまり、本人に非がなくても、前世の罪や先祖の罪の報いを受ける可能性があり、怨霊の災いを逃れるためには、神仏の守護を強化する日々の祈りが欠かせないようです。
次に、願望成就の祈りですが、いろいろと調べてみると、どうもこの世界には、人間の祈願を聞き届ける仕組みが存在するようです。
例えば、聖書の『マルコによる福音書』には、キリストが祈願について語った言葉が次のように記録されています。(フェデリコ・バルバロ:訳、『聖書』より)
「神を信仰せよ。まことに私は言う。この山に向かって、立って海に移れと言い、自分の言ったことは必ずそのとおりになると、ためらうことなく信じるなら、そのとおりになるだろう。だから私は言う。祈って願うことはすでにかなえられたものと信じよ。そうすればそのとおりになる。(後略)」
「祈って願うことはすでにかなえられたものと信じよ。そうすればそのとおりになる。」とは、非常に力強い言葉ですね。強い信仰があれば、祈願は必ず成就するようです。キリストが数々の奇跡を起こしたのも、この強い信仰によるものだと思われます。
また、以前ご紹介した、国学者の平田篤胤(ひらたあつたね)が書いた『仙境異聞』(せんきょういぶん)という本にも祈願のことが書かれています。
それによると、天狗小僧・寅吉(とらきち)は、金毘羅様に仕える山人(さんじん=かつて人間だったが、修行して天狗になった人)と出会って異界に出入りするようになったのですが、その山人は、人間の願いをかなえることを仕事としており、邪悪な願いでも長期間一心に願えばかなうのだから、まして正しい祈願なら、よく信心すれば必ずかなうと語ったそうです。
さらに、天理教でも、「しんぢつの心あるならなになりと はやくねがゑよすぐにかなうで」(真実の心があるなら何なりと早く願え、すぐにかなう)と教えています。
天理教の教えによると、神は人間の陽気暮らしを見たいと思って人間を創造したそうですが、単に見物しているのではなく、人間の祈願がかなうよう、神は常に人間をバックアップしているようです。
この点について、金光教では、願望成就の仕組みがこの世界に張り巡らされていることを、もっと明確に教えています。
「願う心は神に届くものである。天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである。糸にとんぼがかかればびりびりと動いて、くもが出て来る。神も同じことで、空気の中にずっと神の道がついているから、どれほど離れていても、拝めばそれが神に届く。」
つまり、どんな人でも神とつながっており、真剣に祈れば、それは必ず神に聞き届けられるということです。
この世界は、強い信仰をもって祈り、正しい心で生きれば、望み通りの人生を歩むことができる素晴らしい世界なのです。もし、これまで祈りと無縁の方がおられましたら、これを機会に、生活の中に祈りを取り入れてみてはいかがでしょうか?
これまでのことをまとめると、この世界は、悪魔や悪霊が暗躍する厳しい世界ですが、実は、人間を守護し、人間の願いをかなえる強力な霊界の仕組みが完備しています。祈りは、この守護強化・願望成就の仕組みを最大限に利用するための手段なのです。
ただし、祈りにはもっと深い意味が存在するようです。次回は、いよいよ祈りの本質に迫っていきたいと思います。 (2013年2月8日)
14.祈りの本質
前回は、祈りの主な働きである守護強化と願望成就についてお話しましたが、祈りにはもっと深い意味があるようです。聖書を読むと、キリストは、一人になって長時間祈ることが度々あったようですが、何をどのように祈っていたのでしょうか?
以前、『イエズスに出会った人々』(マリア・ワルトルタ:著、フェデリコ・バルバロ:訳編、あかし書房:刊)という本をご紹介しましたが、その続編の『イエズスに出会った人々(二)』には、キリストが祈りについて語る一節があるので、今回はそれをご紹介しましょう。
十二使徒がキリストの下に集まってから1年後、キリストは弟子たちを霊的に成長させるため、ガリラヤ湖の西方の山奥に弟子たちを引き連れ、祈りの1週間を過ごしますが、そこで、最初にキリストがこう言います。
「今、私がおまえたちを使う時が来ました。そのために、おまえたちを造るべきです。有効な薬、強い武器に頼ります。それが祈りです。私は、ずっとおまえたちのためにいつも祈りました。だが、今、おまえたち自身で祈るよう望みます。まだ、私の祈りは教えられないが、祈りとは何か、どのように祈るべきかを知らせたいのです。祈りとは、父と子らとの対話、霊と暖かく深い信頼でつながれた率直なおまえたちの霊魂との対話です。祈りがすべてです。祈りは告白で、己の認識、己への涙、己と神との約束、神への要求、すべてを御父の足元に頼むことです。」
その後、弟子たちは、かつて人が暮らしていた洞穴に一人ずつ分かれて入り、孤独な祈りの生活を始めますが、その過程で、彼らは神と出会い、神を理解します。やがて、1週間が過ぎ、最後にキリストが弟子たちに言います。
「心から言うが、おまえたちへの愛のため、また私が所有する上智のため、私に御父の御業を果たす義務がなければ、私はおまえたちをここに引き留め、いつまでも一緒にいたい。そうすれば、おまえたちを偉大な聖人に育てるのは絶対です。」
「今、この時に、おまえたちは神しか渇望していない。おお、おまえたちの中で、この渇望がいつまでも続くように、固くしたいのだが、世間が私たちを待っています。その世間に出かけましょう。」
「今日から、おまえたちは最も愛された弟子であるだけでなく、使徒となり私の教会の長となりました。これから世の中に広まり、何世紀も何世紀も、教会の補佐と信者たちはおまえたちのもとへ来て、先生と呼ぶはずです。しかし、おまえたちは権勢、上智、愛をもって、先生として神をいただくべきです。」
これを読むと、キリストの説く祈りは、単なるお願いではないことが分かります。キリストは、「祈りとは、父と子らとの対話」であり、「祈りは告白で、己の認識、己への涙、己と神との約束、神への要求」だと語っています。
これを私なりに解釈すると、祈りとは、神仏を自分の親だと思って、すべてをさらけ出して対話し、その対話を通じて自己を認識し、自分の悪い面も含めてすべてを受け入れ、そこを出発点にして自分のあるべき姿を描き、神仏に必要な助けを求めることではないでしょうか?
このように祈ることによって初めて、祈りが自分を成長させる糧となるのだと思います。十二使徒は、無学な者も多かったのですが、祈りによって大いに成長し、裏切り者のユダ以外は聖人となりました。「祈りがすべてです。」というキリストの言葉は、大いに味わうべきではないでしょうか。
さらに、キリストは、祈りが「霊魂との対話」であると言っています。
我々は、ややもするとこの世界の雑事に心を奪われ、自分が霊的存在であることを忘れてしまいます。中には、死んだらすべて終わりだと考えている人もいるようです。
しかし、例えば金光教では、死を次のように教えています。(金光教扇町教会のホームページより、URLは、http://www.ko-ougimachi.com/tenti/tenti1.htm)
「死ぬというのは、みな神のもとへ帰るのである。魂は生き通しであるが、体は死ぬ。体は地から生じて、もとの地に帰るが、魂は天から授けられて、また天へ帰るのである。死ぬというのは、魂と体とが分かれることである。」
つまり、人間は、生き通しの魂を持った霊的存在なのです。もっと言えば、人間の本質である霊魂は、永遠に生き続ける生命であり、病むことも老いることもない、非常に尊い存在なのです。
人間の心は弱いもので、ときには悪に傾くこともありますが、自分の中には尊い霊魂があり、祈ることはこの霊魂との対話であると自覚することができれば、心を強め、心の曇りを払うことが可能になるのではないでしょうか?
さらに、祈りは霊界通信ですから、自分以外の霊魂にも届きます。心をこめて世界平和を祈る人が増えれば、その祈りは世界中の人々の魂と共鳴し、必ず世界を変える力となるでしょう。祈りは、自分を霊的に成長させる糧であると同時に、世界を救う秘訣でもあるのです。私は、これこそが祈りの本質ではないかと思っています。
最後に、『共産主義国家における聖母の出現』(デルコル神父:著、世のひかり社:1991年刊)という本に載っている聖母マリアのメッセージをご紹介しましょう。このメッセージは、1989年7月25日に、ユーゴスラビア(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)のメジュゴリエ(Medjugorje)という小さな村に住む少年少女たちに与えられたものです。
「愛する子どもたちよ、わたしはあなたたちを祈りに招きます。子どもたちよ、祈りによって、あなたたちは喜びと平和をうけるでしょう。祈りによってあなたたちは、もっと豊かな神のめぐみをうけます。それで、子どもたちよ、祈りがあなたたちひとりびとりのいのちとなりますように。
とくべつに、神から離れているすべての人の改心のために祈るように招きます。そうすれば、神がすべての人の心の中で王となられるので、わたしたちの心ももっと豊かになるでしょう。それで子どもたちよ、祈りなさい、祈りなさい、祈りなさい。祈りが全世界を支配するようにという、わたしの呼びかけに答えてくださったことを感謝します。」 (2013年3月1日)
15.人間の尊さ
キリスト教では、キリストだけが神の子とされていますが、天理教では、「日本の霊性-15.人類創造」でご紹介したように、この世の人間はみな神の子であると説かれています。
キリスト教の神も、天理教の神も、同じ創造神のはずですから、教えに違いが存在するのは不思議ですが、これはひょっとすると、人類の進歩に合わせて、教えが変化しているということなのかもしれません。
つまり、昔の人々は、大自然の脅威に怯えて生活していたはずですから、そういう人々に「神の子よ」とよびかけても、あまりピンとこなかったことでしょう。しかし、産業革命によって自然を征服するほどの力を持つようになった近代の人々なら、「神の子」という称号も不自然ではありません。
おそらく、創造神は、人類が早く「神の子」とよばれるのにふさわしい存在となるよう、多くの高級霊を指導者として地上に派遣し、人類を導いてきたのではないでしょうか。
そして、我々が自分自身を「神の子」であると本当に自覚する日がくれば、前回強調した、人間が非常に尊い存在であるということも、自然に理解できるようになるのではないでしょうか。
ところで、人間の尊さをもっとすごい言葉で表現した人がいます。それは、「井出国子」(生没年:文久三年(1863年)七月二十四日-昭和二十二年九月六日)という女性です。
『心のはらい 第一巻 神さまのこと』(芹沢真一:著、朝日神社友の会心のはらい普及部:1973年刊)という本によると、彼女は、兵庫県三木市高木のヤスリ鍛冶、井出仙蔵の妻で、明治四十一年(1908年)、四十五才の年に神が現われたのだそうです。
この不思議な婦人は、訪ねてくる者の心を見通すだけでなく、手で触れただけで家や人を揺らしたり、屈強な男を投げ飛ばすこともあったそうで、誰でも初対面で、彼女が神であることを認めたそうです。
彼女に降りた神は、終戦から半年後に、次のように宣言したそうです。
◆昭和二十一年二月六日朝の神言
人より外に、神はない
人が神や
これを、教えるために、神は、この世へ現われたのや。
人が神やと、教えたからには、神は、二度と、この世には、現われないぜ。これでおしまいや。
どうぞ、みなさん、おたがいに、神になって、通って、下され頼みます。
◇
「人より外に、神はない」とは、衝撃的な言葉ですね。これは、ヨガの真我(プルシャ)という考え方と関係があるのかもしれませんし、あるいは、神智学のモナド体と関係しているのかもしれませんが、これほど人間の尊さを強烈に表現した言葉はないでしょう。
自分がこの言葉に値する存在かどうかは分かりませんが、私はこれを読んで、何か生きる希望が湧いてくるような感銘を覚えました。この世界は謎だらけですが、人生というものは、本当に生きる価値のある素晴らしいものだということは間違いないようですね。 (2016年10月31日)